TRIVIA 宝くじにまつわる雑学集2
Trivia05
ギャンブル依存症続出!? 江戸の「富くじ」
江戸時代、瀧安寺の「箕面富」が人気を集めると、金銭が当たる「富くじ」が全国に広がっていきました。特に、感応寺(台東区谷中)、瀧泉寺(目黒区下目黒)、湯島天神(文京区湯島)は江戸の三富と言われるほど盛んでした。
人々は次第にこうした富くじに熱狂するようになり、仕事を放り出す今で言えばギャンブル依存症の輩が続出。ついには元禄5(1692)年に幕府から「人心を乱す」と富くじ禁止令が出されることになりました。
しかし、元禄13(1700)年頃になると幕府財政が困窮。国が寺社を援助できなくなったために、幕府は寺社でのみ、修復費用調達の方法として「富くじ」の発売を公認。その後、天保13年(1842年)3月に天保の改革の水野忠邦が一切差し止めするまで続き、地方で細々と続けられていた富くじも、明治新政府のもとで完全廃止されることになりました。
Trivia06
ハズレ券でたばこに交換できた最初の宝くじ
終戦の年、昭和20(1945)年。戦後の激しいインフレ防止のため“宝くじ(宝籤)”という名前で「政府第1回宝籤」が発売されたのが、現在私たちが購入している近代宝くじのルーツ。
漢字くじとも呼ばれニセモノも出るほどの人気だったそうです。さて、気になる当選金額ですが、1枚10円で、1等は賞金10万円(現在の金額に換算すると、約150万円) と、カナキン(純綿キャラコ)2反。ハズレ券4枚で、たばこ10本と交換できる、といった副賞付の宝くじだったようです。当選金額としては、現在と比べるとかなり低めですが、戦後の物資不足でインフレの中、お金より物といった切実な世相を反映してのものと言えそうです。
Trivia07
戦時中に発売された宝くじ「勝札」の運命は・・・
先のトリビアで「政府第1回宝籤」が今の近代宝くじのルーツと紹介しましたが、その少し前に「勝札」といういわゆる宝くじが発売されていました。
明治政府が富くじを禁止して以来の宝くじで、法律を改正してまで売り出したその目的は、戦費の調達。発売はこちらも終戦の年昭和20(1945)年でしたが戦時中の7月16日。
大都市ではB29が飛来し空襲警報が鳴り響く中、1枚10円(1等10万円)の「勝札」2,000万枚が販売され、終戦の日の8月15日に販売を終了しました。そして抽選会が行われたのは、日本が戦争に負けた後の8月25日。戦費調達のため、勝利の願いを込めて名付けられた「勝札」も、抽選前に敗戦となり、皮肉にも「負札」と呼ばれることになったそうです。
Trivia08
車・家・旅行・・・、当たるのはお金だけではなかった
近代宝くじは、カナキン(純綿キャラコ)2反の賞品を付けてスタートしましたが、70年の歴史の中にはこんな賞品付き宝くじもありました。例えば、昭和23(1948)年の「第5回東京都復興宝くじA」に賞金とは別に住宅一棟の賞品がつけられていました。
さらに昭和35(1960)年には乗用車付き宝くじ、翌年に東京オリンピック開催を控えた昭和38(1963)年にはオリンピック入場券を付けた宝くじが大人気になったそうです。
その他、スポーツカー付き[昭和57(1982)年]、豪華客船で世界各国への船旅付き[昭和61(1986)年]、ワールドカップの入場券プラスお小遣い付き[平成14(2002)年]、エコツアー(ペア)プラスお小遣い付き[平成15(2003)年]なども。最近賞品が設定された宝くじは見られませんが、こんな宝くじがあっても楽しいかもしれませんね。